玄峰老師
堪え難きを堪え
忍び難きを忍び・・・
堪え難きを堪え
忍び難きを忍び・・・
性根玉(しょうねったま)を磨け、隠徳を積め
磨いたら 磨いただけの
光あり
【昭和の傑僧】
生涯
和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)の湯の峰温泉の旅館・芳野屋(現・あづまや旅館)で生まれた。産まれた後旅館の前に盥に入れて捨てられていた乳児を、渡瀬の岡本善蔵・とみえ夫妻が拾い、養子にして岡本芳吉と名付けた。幼少期は暴れん坊で勘が鋭かったため、「感応丸」と呼ばれた。
十代前半の頃から筏流しなど肉体労働に従事し、17歳の頃に結婚して岡本家を継いだが、1887年に目を患い失明(わずかに光は感ずることができたという)したため、弟に家督を譲って四国八十八箇所の霊場巡りに旅立つ。素足で巡礼をしていたという逸話がある。7回目の遍路の途上高知県の雪蹊寺の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられ、寺男として働き始める。その勤勉振りを買った太玄和尚に入門を勧められて修行を始め、後にその養子になった後、雪蹊寺の住職となる。
その後、全国をまわって修行を続け、龍沢寺、松蔭寺、瑞雲寺など白隠慧鶴の古刹を再興した。1926年からアメリカ、イギリス、ドイツ、インドなど諸外国への訪問を開始する。帰国後に推薦を受けて臨済宗妙心寺派の管長となり、後に龍沢寺の住職となる。
1945年、終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言したり、天皇を国家の「象徴」と定義する(象徴天皇制)よう発案するなど、鈴木貫太郎首相などの相談役なども努めた。
1961年6月3日、静岡県三島市の龍沢寺自坊で96歳をもって断食、遷化した。葬儀には外遊中の池田勇人首相の名代として大平正芳官房長官などが列席した。
多くは文字を知らなかったとされるが豪傑として知られ、その姿を見た剣の達人は「あの人は斬れない。衣と体がひとつになっている。ああいう人は斬れない」と周囲に洩らしたという話がある。ーウィキペディアよりー
当館は、玄峰老師の父 岡本善蔵が、芳吉(後の玄峰)に家督を譲り隠居する際に建てられた家屋です。
老師が帰郷された際に立ち寄り、お竈さん(おくどさん=かまど)の前で良くお酒を飲まれてたそうですよ~!(^^)!
当館から車で3分のところに、老師のお墓が建てられております。